テレビで林先生が教育論で「自分の成功体験を伝えるのは危険」と言ったのが、今話題になっています。
どのように危険なのかを少し調べてみました。
目次
感動の再生産は単なる押しつけでしかない
子どもを教育する上で、親や学校の先生などの教える立場の人は、自分の成功を元に語ることが多いと思います。
「自分がこうだったから、子どもたちもこうだろう」
と、その思考こそが危険だそうです。
正しい教育者としては、
「自分がこうだったから、子どもたちもこうだろう」ではなく、
「自分はこうだったけど、子どもたちもそうかな?子どもたちはこうだろうか?」
と考えるべきだそうです。
自分がそうだったから、そうだろうという感動の再生産はただの押しつけでしかなく、人の成功体験が一番人の目を曇らせる。
とのことです。
成功体験の押しつけは危険
では、何故成功体験の押しつけは危険なのかというと、その人の成功体験はあくまでもその人個人のものだからです。
同じ人間ではない限り、その人その人で向き不向きがあるため、いくら自分がその方法で成功したからと言って、相手も同じ方法で成功するとは限らないことを念頭に置いて話さなければいけない。
林先生は、当時ラグビーだったそうなのですが、
「同級生に会いたいと全く思わない」
「仲間 青春 感動 全くなかった」
そうです。
林先生自身が部活で学んだことは、
「自分が向いていないことに努力しても何一つ結果は出ない」
と経験から言っています。
林先生にとっての学校は部活よりも「基礎学力充実の場」との考えがあるようです。
部活動を学校で行わなければいけないというのは、あくまでも思い込みであり、北欧の多くの学校では地域のスポーツクラブなどで運動する子どもが多いそうです。
しかし、就職活動において個人的に今だに面接時で部活動をしていたというエピソードは印象が良いイメージがあります。
日本の会社では、部活動=集団生活が上手くできる、協調性があるなどプラスの印象。
女性においても、部活動のマネージャー経験がある=集団を上手に束ねられる、面倒見が良いなどプラスの印象を持たれることが多いと思います。
以前、SNSで様々な人と交流を持っていた時に高校に入学したばかりの女の子が、本当は茶道部に入りたいけれども大学卒業後の就職のことを考慮して今から部活も考えなければいけないから、嫌だけれども運動部に入るという話をしていました。
確かに林先生の言葉はその通りなのですが、日本の学校はあくまでも企業に従順な会社員を育てる教育をしているところがあるので、無難なそれこそ大手企業に入って、一生安定な無難な生活を送りたいという人には向いていないような気がします。
真の成功者は人と同じことができない?
フリーや独立でお店を経営したり、お仕事をする人とお話しをする機会が以前あったのですが、その人たちに「何故独立をしてお仕事をしているのか」などの個人経営になったきっかけを聞いたことがありました。
返ってきた言葉は「独立するしかなかった」とのこと。
詳しく聞くと、集団行動ができず、会社内の規則を守るのが苦手で精神的に辛かったから独立して一人で仕事をするしかなかったそうです。
もし協調性や集団行動などができる人間だったら、やはし会社側から毎月きまったお給料をもらって安定した生活を選んでいたかもしれないが、逆にそうではなかったから違う道を選んで成功できたとおっしゃっていました。
私も以前、成功者が書いた本や、自己啓発本などが大好きだったので沢山購入しては読み漁っていたのですが、どの本も確かに共通していることは書いているのですが、全く同じというわけではないのです。
全ての本を照らし合わせたら、成功の秘訣に矛盾が生じると感じることさえありました。
成功者の言葉や経験は鵜呑みにするのではなく、あくまでも知識の一つと捉えて、その中から自分に合ったものを見つけるのが良いのだと思います。
話は少し逸れましたが、そういう意味でも、教育する側の人間は「成功=○○」と決めつけるのではなく、常に相手の立場に寄り添って相手はどのような人間でどういうのが向いているのかなどを一緒に考えてあげるのが良いのでしょうね。
もう少しで私は人生の折り返し地点になる年齢になるのですが、この歳で思うことは、人は全く同じ経験をしている人間はいないということです。
人それぞれが色々な経験を経て生きているのであり、自分より年上だから経験が深いとか、年下だから経験が浅いというのも人それぞれ違うということです。
つまりは、相手が何歳だろうと相手から学べる新しいことはあるということです。
個人的にいつも気を付けたいと思っているのは、相手が年下でも常に何か学べるなら学ぼうという姿勢で接したいという気持ちは失わずにいたいなと思います。
自分の方が年上だし経験も沢山あるから教えてやるんだ!とか、何も経験していないくせに生意気な!というのではなく、とりあえず今はどんなに相手が自分と異なる意見を述べても「なぜ、この人はこのような意見になったのだろう?」と考えるようにはしています。
全く異なる意見やサイコパスのような意見は論外として、考える余地があるのならば返事は保留にして直ぐにノーとは言わないように。
もしかしたら、相手ではなく自分の経験が足りなくて理解に及んでいないだけかもしれないですし、あくまでも自分の意見や経験が絶対という奢り高ぶりな思考ほど怖いことはないなと思うようにしています。
それは例え相手が子どもでも、子どもという純粋な思考故の何か発想もあると思うので、これは全て正しいとは言い切りませんが、誰に対しても、それこそ姑から嫁に対しての言葉も含めて、自分の成功や思考が全て正しいと思わずに一緒に考えるようにしてみてはいかがでしょうか?
<<参照元>>
自分の成功体験を伝えるのは危険 pic.twitter.com/XTSOC1Ljl4
— 凍結され太郎 (@Story_terrorV2) 2018年7月11日