『情けは人の為ならず』本当の意味とは?

「情けは人の為ならず」とは

【注釈】 「人の為ならず」は、「人の為なり(古語で断定で「人のためである」の意味)」の全体を打ち消しの「ず」で否定しているので、「人のためである+ということではない」。つまり、「人のためばかりではいない」の意味となる。
【出典】 -
【注意】 「情けをかけることは、その人のためにならない」の意味で用いるのは、本来は誤用である。
このような誤用が生じたのは、打ち消しの「ず」が「為(に)なる」にかかっていると解釈すると、「ためにならない」という意味になるからである。
近年、この意味での解釈を正しいと思い使う人が増えているが、それは時代によることわざの意味の変化と捉え、使用されている場面に応じて意味を推測する必要があると見られている。
【類義】 思えば思わるる/積善の家には必ず余慶あり/人を思うは身を思う
【対義】 恩が仇/慈悲が仇になる/情けが仇/情けの罪科/情けも過ぐれば仇となる
【英語】 One good turn deserves another.(ひとつの善行はもうひとつの善行に値する=恩に報いるに恩をもってする)
A kindness is never lost.(親切は無駄にならない)
【用例】 「彼を助けたのは、自分自身のためでもある。情けは人の為ならずというように、いつか自分にも報いが来てくれれば幸いだ」

『情けは人の為ならず』の意味を知っていましたか?
少し前でしたら、殆どの人が言葉をそのままの意味に受け取り、「人に情けをかけても、その人の為にならない」と受け取っていたことでしょう。
今では、正しい本来の意味の「人に情けをかければ、巡り巡っていつしか自分の為になる」ということが知れ渡るようになりました。

この言葉は情けのみに限りません。全てに通じる言葉だと私は思って生きています。

例えば、道端で突然悪態をつかれたとします。
「なんだこいつ?!」と不快な気持ちになったことはありませんか?
ちなみに私は結構な頻度で人に対して色々「ん?」と思います。
そして、思った後に「私も他の人にそう思われているんだな」と思うようにしています。

意図的ではなくても、人は必ず誰かしらに迷惑をかけて生きている生き物です。
絶対に私は人様に不快な思いをさせずに生きている!と胸を張っている人でも大体の人はどこかで迷惑をかけているのです。

女性ならば電車の中。
殆どの女性が気付いていない人が大半だと思いますが、髪の毛を結ばないでそのままの髪の毛で電車に乗っている人が結構いますが、髪の毛が満員電車などで周囲の人の顔に触れて結構迷惑です。
私も以前は何も考えずに結ばないでそのままの髪の毛で電車に乗っていましたが、自分が不快な思いをしてからは、髪の毛は満員電車に乗る日はまとめて(夜会巻きや、お姫様ヘアスタイル)周囲に迷惑にならないようにしています。

確かに垂らしている髪の毛や何もしていない髪の毛は女性らしくて、どの雑誌でも男性にモテる髪の毛ですし、好感度は高く書いてありますが、私は男性からの好感度や女性らしさよりも、満員電車に乗った時の周囲の人に気を使える人間でありたいです。

その他にも、例えば自転車置き場での自転車です。
時々自分の自転車も含めて倒されていたりすることはありませんか?
自転車置き場に置いていると、結構な頻度で自転車が倒されているのです(自分のだけではなく、その周辺の自転車も時々)。
私は時間が許す限り、自分の自転車以外も元に戻すようにしています。
自分の自転車を出す際に隣の自転車が倒れてしまった場合、そのままにして行く人もいるとは思いますが、自分が原因で倒れた場合はどんなに時間がなくても元に戻すようにしましょう。
そうしないと、いづれまた自分の自転車も同じ扱いを他人から受けるのです。
別に自分の自転車は倒されたことがないので関係ないと思っている人もいるかもしれませんが、それは違います!
見ていないところで誰かが元に戻してくれているという思考を抱きましょう。

「生きていて一度も良い行いをしたことがない」と思っている人がいたとしても、それも違います。
もしも生きていて人から良い行いをされたことがあったとしたならば、それはあなたが無意識に良い行いをした結果だと私は思います。

そのように無意識でも意識でも良い行いも悪い行いも全ては巡り巡って自分の元に戻ってくるのだとしたならば、みんなから良い行いをされたいって思いませんか?私はちなみに思うんですよ!
なので意識的に人のために良い行いをしませんかというお話しです。

ちなみにこの巡り巡って自分に返ってくるというのは、いつ返って来るかは神のみぞ知るです。
幼少期にした良い行いが老後に返ってくる可能性もありますし、それは誰にも分からないのです。
それは悪い行いも然りです。

世の中ではそのことを「因果応報」とも呼びます。

「因果応報」とは

【注釈】 本来は、よい行いをしてきた者にはよい報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがあるという意味だったが、現在では多く悪い行いをすれば悪い報いを受けるという意味で使われている。
仏教の考え方で、原因に応じた結果が報いるということ。
【出典】 -
【注意】 -
【類義】 悪因悪果/悪事身に返る/悪事身にとまる/仇も情けも我が身より出る/因果覿面/因果は巡る/自業自得/自縄自縛/善因善果/爾に出ずるものは爾に反る/福因福果/平家を滅ぼすは平家/身から出た錆/刃から出た錆は研ぐに砥石がない/刃の錆は刃より出でて刃を腐らす/六国を滅ぼす者は六国なり
【対義】 -
【英語】 Self do self have.(自分の行為は自分に帰ってくる)
An ill life an ill end.(悪い生き方をすれば悪い死に方をする)
As a man lives, so shall he die, as a tree falls, so shall it lie.(人は生きてきたからには死なねばならず、それと同じように、木は倒れたからにはそのまま横たわってなければいけない)
【用例】 「因果応報で、あれだけの悪事を働いていたのだから、彼が職を失ったのは当然の結果だ」

全ての事には原因があり、結果があります。
「情けは人の為ならず」も、原因:情けを人に与えると巡り巡って、結果:自分に返ってくる。

もしも今自分の現状に不服や不満があるとします。
過去の出来事を思い返してみて下さい。原因が必ずあるはずです。結果には必ず原因があるのです。

「失恋をした」。失恋をするだけの何か理由があるのです。
「太った」にしても、「お金がない」にしても、「結婚が出来ない」にしても必ず全てには原因があるのです。

そして未来の自分が少しでも幸せになりたいと思うのでしたら、今この瞬間に幸せになる原因の種を撒くのです。

原因が種で、結果が実った果実だとします。
種を撒いただけでは芽は出ませんよね?実った果実の結果になるためには、そのための努力も惜しんではいけません。
何もしなかったということは、それが結果になるのです。

私ならば多分ここまで読んだだけでしたら、時と場合によっては「面倒臭い」と思うと思います。
なんらかしら今の自分に不満がある人は大抵がそういう人間です。
だって「幸せになりたい!」って漠然に思ってるだけなのに、途中でどんな努力をすれば良いのか考えてしなさいって言われても分からないじゃないですか?
そう思いませんか?私は自分の人生経験から言っても、正直分からなかったです。。

そこで「情けは人の為ならず」が再度登場するのです!

ここまで読んでくれた人だけが幸せに近付けるお話し

自分が幸せになるために頑張る!って正直漠然とし過ぎていて難しいと思いませんか?
因果応報・・・分かるんです。その仕組みはとても、確かに人生全て因果応報でしたし、それで全て片付くのです。
しかし、この言葉に沿って人生を歩むとなんともハードモードにしかならないのです。

そこで「情けは人の為ならず」の登場なのです。

人の為に何かをしたら、巡り巡っていつか自分に返ってくる。
因果応報と比べたら簡単じゃないですか?

簡単な例を出すと、お年寄りや妊婦さんに席を譲ってあげる⇒いつか自分の人から良い行いをされる。
どんな些細なことでも、何か人に良いことをしたら、どんな形になってでも返ってくるのです。
自分の言動や思考の全てを正すよりも、他人に少しでも良い行いをして幸せになる方が私は簡単だと思うのです。

無意識に今直ぐ良い人にはなれなくても、生活習慣はいつしか自分の身体に染みつくものですから、まずは意図的に人に良い行いをすることを初めてみませんか?

明日でも明後日でも、今行った良い行いはいつしか未来の自分を幸せに導いてくれると思いますよ。