私は現在引きもりでメンタルも少々病んでいる状態だったりする。
そのせいもあり、普段ならば些細な出来事で終わるようなネット上でのやり取りでさえも大袈裟なくらいに心に傷を残して心身を滅多刺しに壊される。
心身が安定していて穏やかな平常心の時は全く思わないし、メンタルが多少病んでもそんなに思うことがない私なのだが、今回は何かが違ったらしく私は相手にこう思ってしまった。
「死ねば良いのに」
病む人間は自分を責める傾向にある
そう数日前から何度も思い、今朝改めて再度別の人物も追加されて私は思った。
そして今朝思ってから7時間以上経ってからSNSに自分の感情を色々と投げながら気持ちを整理していたら、そう思う自分自身の醜さに今度は辛くなってきてしまった。
メンタルの弱い人間にありがちな、他人を恨んだり憎んだりしつつも最終的には自分を責める例の「アレ」だ。
その感情はどんどん膨れ上がり、目からは涙が零れて号泣へと変わっていった。
「こんな私自身が死ねば良いのに」
相手への気持ちからその言葉は途中で自分に向けられ始めた。
人間がこの世に存在する理由
人間がこの世に存在するには理由があるときく。
そもそも人間がこの世に存在している理由は魂の成長らしい。
そのために色々と経験して学んで、本によっては本来の自分を思い出しながらプラスαで成長していくためでもあるという。
つまりは誰かの魂が成長するために必要な存在だからこの世に生かされているという考えもあるらしい。
人間とは慣れる生き物である
引きこもっている現在の私が誰のための魂の成長に繋がるのか。
そもそも引きこもりの私を必要としてくれる存在は最愛の夫以外に考えられない。
多分ではなく、間違いなく夫は私がいなくなったら悲しむだろう。
しかしだ、人間は慣れる生き物だ。
家族を失った私も時に思い出して涙をする日もあり、失恋した時も数年は毎日号泣していたが、それでも最初の頃よりは酷くない。
そう『慣れた』のだ。
嫌いな相手が「死ぬば良いのに」と願うことに関して
ブッダの言葉だったと思うのだが、嫌いな相手に「死ね」と思う気持ちに関しての回答が確か
「人間はいつかはみんな必ず死ぬ」
だったと思う。
私自身毎回相手にそのような感情を抱くたびに、この言葉を思い出すのだが、その場では「今直ぐ!」の言葉をどうしても前につけてしまう。
しかしだ、ふとさっき気付いたのだが人間は既に今も死んでいるのだということに・・・。
そうなのだ。
今この瞬間も人間は死んでいくから老化をしていくのだ。
死にたいと思う自分に対して
つい先ほど
「死んでしまいたい」
と思った自分がいたのだが、そのように今この瞬間も死に向かって歩んでいて死んでいることに変わりがないとするならば、特別死に対して真剣に考えることはないのではないだろうか?
むしろ
「もっと生きたい」
と考える人間の方が毎日死に向かって歩んでいると考えたならば、それはなんたる苦痛だろう。
そして目の前の嫌いな人間はそのように思わないと想定すると・・・ますますこれは滑稽な話のように思えてしまった。
相手はこの瞬間も願ってもいない死に向かって歩いているのだ。
そう考えると気持ちは少し落ち着いてきた。
私は既に今も死んでいるのだ。
そして相手は今死に向かって歩んでいるのだ、望んでもいなければ気付いてもいない今この瞬間も・・・