発達障害と診断されたので、私個人の自分の理解できないことについて話したいと思います。
まず今回は『友達』という存在について。
目次
発達障害:「友達」というものがどういうものかが分からない
友達(ともだち)とは
勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人。友人
友達について調べると、ネットではこのように出てきました。
そうだろうなと思う反面、ニュアンスでは分かるけれども今いち理解できないのです。
小さい子供だった頃は特に『友達』という存在について深く考えてはいなかったのですが、小学校に入った時から少しずつ考えるようになりました。
発達障害:友達は片想いでも成立する?
小学校の1~2年生のある授業の時に先生が皆に「この紙に友達の名前を書いて提出してください」。
私は仲良くしている相手の名前を書きました。
その授業が終わった後の休み時間の雑談で「誰の名前を書いたか」という話になった時に、
自分が例え書いても相手も同じように名前を書いてくれるかどうかというのは分からないということを知りました。
つまりは『友達』という関係性は自分一人で思っているという「勘違い」が生じることを知ったのです。
これは結構怖い気がしました。
自分は友達だと普通に思っていても、相手は思っていないのです。
それでも友達関係は上辺では成立しているというのが何よりも怖い・・・。
それから私はその後同じことが起きた時は白紙で出すようになったと思います。
発達障害:友達の関係性は簡単に壊れる
私の家は転勤族だったため、小学校を三回変わっています。
今と違って昔はスマホや携帯というものが存在していなかったので、引っ越した後は「文通」というのでやり取りをして友達との関係を維持していました。
ところがこれを続けるのがなかなか難しいのです!
気付くとあっという間に途切れて縁が切れてしまう。
そして今自分がいる学校の人たちとの関係を優先してしまうようになるのです。
そういうことからも、友達関係は簡単に壊れる事実や継続がいかに難しいのかを子どもながらに知りました。
しかもこの友達関係なのですが、遠い距離になると継続が難しく、近い距離ならば共感を常にし続けて同じことをしなければいけないという困難にぶつかります。
例えば仲が良いと思っていた友達の一人が嫌いな人間ができると一緒に嫌わないといけないなど。。
これがなかなか理解できないのです。
何故一緒に嫌わないといけないのか?
当然理解ができないと仲間外れにされ、友達関係はあっという間に壊れます。
発達障害:友達はその場を生き抜くためのアイテム
最終的に色々あった結果、私が得た「友達」に関しての答えは、
『その場を円滑に生き抜くために利用するアイテム』
でした。
というより、周囲を観察したり経験して、そういうものなのかと思ってしまったという方が正しいのかもしれません。
学校内ではやたらと「仲の良い人とグループを組んでください」など複数での行動を求められるので、単独行動はなかなかリスクがあるのです。
ただやはり友達関係というものが理解できないことから、とりあえず一緒にいれば良いのかなと思って一緒に過ぎすだけなので、不登校が多い私は仲良くする相手を学校外に作っていました。
多分ここから今の思考は既にできていたのかもしれないです。
発達障害:同じ空間にいる間は友達にはなれない/友達ではない
大人になってからの職場でもそうなのですが、同じ職場にいる間は友達には決してなれないとどこか思っています。
あくまでも同じ空間にいる相手は「仲間」という認識になるからです。
なので私が職場で仲良くなった人を友達と思う時はその職場を辞めた時になります。
当然ながら卒業式が終わった時には、これで二度とこの人たちは会うことはないと思っていました。
しかし仲良くしていた人たちは私に卒業式の日にこう言ったのです。
「今度いつみんなで会おうか?」
私は驚きました!何故卒業してまでも会わなければいけないのか!
何度も書きますが、高校の頃の私の中での「友達」というものは高校生活を無難に生き抜くためのアイテムでしかないのです。
つまりその期間が過ぎたら切り捨てて終わるような関係でしかないのです。
思わず声に出して聞いてしまいました。
「どうして卒業しても会わなければいけないのか?なんでなのか?」
すると仲良くしていた人たちは
「えー!何言っているのー友達なんだから当たり前じゃーん。友達ってそういうものでしょ?」
ここでまず、『友達=アイテム』という考えは拭いさられ、その空間を無難に過ごすための仲から相手によってはその空間から離れても関係は継続されるなどということを学びます。
発達障害:友達は気付いたらなっているものという概念は存在しない
先日テレビを見ている時に「友達になってください」という台詞があったのですが、隣にいた夫が「友達になってくださいとか友達には言わなくて良いんだよ」と言っており、以前もコメント付きのアニメを拝見していたところ同じようなシーンが出た時にコメントに「友達は気付いたらなっているものだから口にしなくて良いw」みたいに書かれていました。
ここまで書くと分かると思いますが、私は相手からもしくは自分から友達というワードが出ない限りは友達だと認識できません。
本当に友達になりたいと思ったら昔は自分から「友達になってください」と言ってはいたのですが、大人になってからはそれを言うのも怖いので様子を見てなるべく相手から言ってもらえる流れを作るようにしています。
多分これは先ほど書いた小学校の時の片想いの友達関係の成立を避けるためだと思います。
発達障害:友達が欲しいけれども、できない
この友達問題なのですが、発達障害の人ならば何度も悩むテーマだと思います。
「友達が欲しい」
私も以前は喉から出るほどに友達が欲しかったです。
特に10代の頃はなかなか友達ができず、できても直ぐに関係は壊れてしまうか壊してしまいました。
そこでその当時仲良くして面倒を見てくれていた知人の年上のお兄さんに
「どうしたら友達ができるのか?」
と質問をしたことがありました。
その時にお兄さんから返ってきた答えは
「友達は死ぬまでに一人できれば良いほうだと思うんだよな。ちなみに自分はまだそんな『友達』と呼べる存在とは巡り遭っていない」
発達障害:友達と知人と親友の違いが理解できない
以前付き合っている相手に「友達と知人の違い」などを確認したところ、
「世の中の人は、知人も親友も一度会った程度の人でもなんでもカテゴリーにどう入れて良いか分からない相手でも全て『友達』と言っている。理由はそう言っておくと無難だから、そう友達というものを深く考えなくて良い」
と言われたことがありました。
ビックリです!!
そんなどうでも良い存在が友達というものだったのかと・・・。
世間では時々「友達は一生の宝」のような表現をする中で、そんな適当に乱用して「友達」と言っている関係もあるというのです。
当然ながら私は同様してしまいました。
すると以前付き合っていた相手から出た言葉は
「多分私がイメージしている『友達』というのは『親友』だと思う」
と言われて、なるほど・・・と納得しましたが、それでも今いちよく違いが実は今でも分かりません。
とりあえず、それからは長い付き合いの相手(何年間仲が続いているなど)で友達か否かのカテゴリーに入れるようにはしています。
当然ながら私の思い描いている『親友』という存在は死ぬまでに1人も作れそうにありません。
発達障害:頻繁に会って一緒に遊んでいても友達にはなれない
昔、バイト先も一緒で、バイト以外の時も大体一週間には1回一緒に遊ぶような仲の女性がいました。
私の中では家に帰ってからも電話で話したり、メールでやり取りなどをしていたり、SNSでもやり取りをしていたし、困った時にはお互いに相談を語り合ったりしていたので「友達」という気持ちは強かったのですが、相手に何気なくある日確認をしたところ
「友達じゃないよ!ただ自分でもよく分からないから関係だから、友達とは別の個別フォルダーの枠に入れている」
と言われました。
ここで改めて「友達」とはどのようなものなのかをおさらいしましょう。
友達(ともだち)とは
勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人。友人
完全に私の中では過去の経験も含めて「友達」と呼んでも良い気はしていたのですが、ここが本当に改めて小学校の頃同様に怖いのが「友達」です。
自分が「友達」だと思っても相手に確認をすると「友達ではない」と言われてしまうのです。
発達障害:友達の不幸は何よりも甘い蜜
高校の頃からの知り合いで定期的にメールが届いては返事の内容によっては返信がなくなる相手がいました(その当時の私は相手を友達だと思っていたのですが・・・)。
ある日、その当時仲良い相手にそのことをさりげなく告げて、何か変だと話したところ、相手は私に
「本当に分からないの?」
と逆に聞かれたので、私も
「理由が分かるの?」
と聞いたら
「私も同じだから分かる」
と相手は言ったのです!
私の中では同じように思ったことがなかったので、詳細に話を聞くと
私は常に人間関係だったり、恋愛だったり悩んでいるから、自分自身が辛い時や不幸な気持ちの時などに「誰か自分より不幸そうながいないかな」と考えるそうなのです。
そういう時に必ず思い浮かぶのが私だそうで、私にそういう時に連絡をすると必ず案の定悩んでいることが多いので、その「悩みを優しく聞いてあげると感謝されるので、辛い時や不幸な気持ちの時などに感謝されたら気持ちが良いから」連絡をするというのです。
正直、話しを聞いてぞっとしました。
この世にそのような思考を持っている人間がいるなんて、この話を聞くまで考えたことがありませんでしたが、その相手は続けて私にこう言いました。
「他人の不幸は蜜の味っていうじゃん」
つまりは定期的に届く知り合いのメールの内容はいつも決まった文章でした。
「元気?」
このメールに「元気だよ」と返すと返事がなくなり、「あんまり」と返すと返事が来るのです。
で、私が今回話した相手と同じに思わなかったのは、話した相手は私が「元気だよ」って返してもとりあえず普通の話を悟られないように続けていたというだけで、目的は同じだったと言うのです。
その話を聞いてからは、私は余程病んでいないで意識が少しでもしっかりしている時は「元気のフリ」をして返信をするようになりました。
ここまで来ると本当に心配している相手と、自分の欲を満たしたいがために利用をしようとしている人の違いが分からなくなってしまうのと、勘ぐった関係を作るのも嫌だし、とにかく親しくしている相手でも人間が怖いと思うようになりました。
いくら友達が欲しくても、私の不幸を常に待っている存在が身近にいるのは怖いです。
そう思うのは私だけなのでしょうか?
ただ教えてもらわなければ私は気付けなかったと思うので、教えてくれた知人には理由がどうであれ今でも感謝をしています。
発達障害:友達については深く考えるのをやめる
ここまで書いたら分かると思うのですが、発達障害者の人はグレーな言葉の認識が苦手なので多分この「友達」というのは自分では一生理解できないと思います。
というのも、ここまで「友達」について他の人は悩まないそうなのです。
なので悩む段階でもう自分から「友達」を作るのは諦めました。
これ以上、自分自身が傷付きたくないというのもあります。
とりあえず誘われたら、その相手が嫌ではなかったら遊びに行ったりお茶をしに行く。
嫌だったら傷付けないように断る。
自分からも誘いたいと思ったら、とりあえずは丁寧に聞いてみて、断られたら諦める。
そして向こうとやり取りをしている最中で急にメールやラインが途切れて連絡が全く取れなくなる場合もあると思います(私はよくありますし、私自身もよくしてしまいます)。
なので、その場合は「嫌われた」とか深く考えずに「そういう縁だった」と最初は少し傷付きますが、いづれこの件は何故か頻繁に起こると慣れるので静かに受け入れましょう。
逆に向こうか「私は友達だと思っているよ」と私側の不安を悟って伝えてくれた人には自分も「友達」だと思うようにしています。
というのが、人生折り返し地点の年齢で発達障害と言われた私の友達に対しての考え方です。
同じように「友達」ってなんだろう?って考えている人や、周囲や家族に発達障害の人がいて、相手を理解したいと思う人などに参考にして頂ければと思います。
これくらいに、たった何気ない「友達」というものだけでも真剣に考えながら生きていて、一つ一つ重く受け止めてしまうという・・・本当にどうにも真面目というか面倒臭い脳みそですが、人によっては「たかが」と言ってしまう存在でもここまで「なんだろう?」って考えてしまう私の脳を私は嫌いに思う日も多いですが、愛おしく感じることもまた多いので、ほかにも常日頃色々と考えていることを書きたいと思うので読んで頂けると幸いです。